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Channel: スポーツ追道
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スポーツにできることを。そして「祈り」を

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     心がからっぽただなんとなくパソコンに向かっている。3月11日から3週間になるが、身体に、心に、思うように力が入らない。スポーツを楽しむということは、心が呼吸してナンボなんだ、とつくづく思い知らされる。被災者ではない。なのに、あの受け入れがたい事実があまりにもしんどい。亡くなった人、大切な命を奪われた人、被災されながらも懸命に生きる人、絶望的な状況でも捜し続ける人、見えない悪魔に立ち向かう人。「人」があまりにも辛い。     ままならないが、あえてそれでもあえて、スポーツの話をする。心が入っていないので内容なんてほとんどない。お許しください。今この苦境の中で、スポーツのあり方が問われているような気がする。スポーツの力を信じてきた。「スポーツ狂」を自負している自分ですら、スポーツの意味や必要性がわからない状況になった。かけがいのない命を失った人、まだその命の行方すらわからない人に、スポーツは響かないだろう。それでもスポーツには力があると思う。そんな偉大なスポーツでも「救い」までは与えられない。     カズがカズたるゆえん昨日、多くのサッカー選手たちは、人々に多くのことを感じさせてくれた。あの難しい状況で、ただひたすらに自分たちのやれること、できることをやりきった。スポーツ報道は「カズのゴールが被災地に勇気を与えた」と。その通りだ。あのゴールに心揺さぶられなかった者などほとんどいないはずだ。でも、カズの立ち振る舞いや言動を見て思う。「自分ができるのは、最高でここまでなんだ……」という虚しさ、歯がゆさ、無力感を。カズの人間としての素晴らしさは、それを嫌というほどわかっていることなんじゃないだろうか。     スポーツの世界でも言葉がいっぱい生まれたある野球選手は言っていた。「こんな時にボールを打ったり、投げたりしていいのか」と。乱暴である。仕事放棄ともとれる。下品な言い回しである。配慮に欠ける。感情的すぎる。でも、この選手の人間臭さには説得力がある。彼の魅力はアスリートとしての能力だけじゃない。ある野球選手は、今回の震災について一言も発していない。彼の言葉の力は絶大なはずだ。それでもなにも言わないのは「沈黙」というメッセージだと思う。その内容はわからない。でも、それはとても重く感じる。選抜高校野球の選手宣誓。16歳の少年が言った「生かされている」。その一言を聞けただけで、もう充分。命、そして野球ができることへの感謝。その気持ちがある高校生たちには、夢の舞台を大いに満喫してほしいと心から感じた。      今日は思う存分脱線させてください全然スポーツの話じゃない。なんかやっぱり上手く心を操作できていない。話が逸れている惰性そのままに突っきってしまいます。      祈りを今回の大震災と津波で、もっとも印象に残ったフレーズ。それは「祈り」。当然単語として知っていたし、意味も理解しているつもりでいた。もっと言えば、この言葉にあまりいい印象をもっていなかった。なにか偽善くさく、恩着せがましさみたいなものを感じていた。実際、震災直後に海外の多くのアーティストや有名人が「日本に『祈り』を捧げます」「日本に『祈り』をおくります」と言っていた。白々しさ感じずにはいられなかった。だが日がを経つにつれ、どんどんその言葉が重くなっていく。宗教的な差異もあるのだろうが、日本という国は「祈り」よりも「願い」の方が強いと感じる。そのふたつの意味の違いを明確にはできない。でも、やはり決定的に違うなにかがあるような気がしてならない。そして今、「祈ろう」としている自分がいる。     『悼む人』ある小説の話。主人公は、ただただひたすら全編を通して「祈り」続ける男性である。全国を巡り、死者を悼み、祈りを捧げる。それを続ける。なのに、宗教的な要素はほとんどない。そうせずにはいられない。生きれない。そして彼にも「救い」はほとんどない。「それに意味があるのか?」。当時は、そんな風にも思った。でも今にして思うと、「祈り」は意味を見出すものじゃない。というのもわかるが、やはりよくわからない。もう一度読み返してみようと思う。     心はずっと実際問題、現状では物質的なもの(金銭も含め)が求められている。人も足りていない。それでも、時間はかかるが徐々にいい方向に向かうだろう。日本は、日本人は、東北は、東北の人は強い。復興を信じてやまない。でも、“心”はそんな簡単にはいかない。むしろ、だんだん辛くなっていくのではないだろうか。今は心が張り詰めて、生きることに必死になっているだろうから。でもその緊張の糸が緩むと、一気にその悲嘆がくる。そして、その嘆きは一生続く。悲嘆に解決はない。心に復興はない。それを承知の上で向き合い続けなければならない。ほんとうに苦しいことだ。「祈り」は今だけじゃ祈りじゃない。ずっとずっと「祈り続ける」。     なにもできない。意味がない。でもせずにはいられない。わかりもしないことを偉そうに書いてすいません。実際、私は「祈る」方法がよくわかっていないし、できていない。じゃ、なにができるか。私は、今回の悲しい震災のことでずっと心を痛めよう、苦しもうと思う。それは、被災者や大事な人を亡くした人になんの足しにもならないことはわかっている。それこそ、意味がない。悲嘆や痛みは分け合ったり、共有したりすることはできない。心は物じゃない。当事者の気持ちをわかったつもりになるなんて傲慢だ理解している。それでも、想像して少しでも共有したい・しようと思う。それが私なりの下手くそで不器用で意味のない「祈り」。     スポーツの力スポーツが今できること。ほぼ何もないと言ってもいいと思う。でも、彼らの悲嘆や苦しみを一瞬でも忘れさせ、少しでも解消できたら……そんな素晴らしいことない。スポーツの力を信じたい。頑張れスポーツ、頑張れアスリート。最後までわけのわからない、とりとめもない駄文にお付き合いさせ申し訳ありません。ありがとうございました。ちゃんと心を強くして(戻して)、またスポーツブログを再開します。          『祈ろう』

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